「わかりあえなさ」を引き受ける
「よい話し合いとは何か」を考え始めてから約1ヶ月が経つ。
とても簡単なようで掴みきれないこの問いについて考えていると、そもそも私たちは「なぜ話し合うのか」が気になってきた。
意思の疎通だけが目的であれば、話し合いを選択する必要はない。
生まれ育った背景や主義主張の異なる相手とわざわざ話し合いの場をもつのだから、そこには合理性や損得を超えた意味があるに違いない。
そんな時に目に止まったのが、哲学者の永井玲衣氏の対話に関するテキストだ。
対話は気持ち悪くて不快でもある。わけのわからない他者の話を聞かなければならない。概念の他者はつるつるでのっぺらぼうだが、実際の他者は、ひとつの欲求や歴史を含んだ身体でもって、目の前に座っている。缶コーヒーのにおいのする息、誰かが頭を掻く音、隣の人の肌から感じる汗と熱っぽさ。顔にかかるため息、ぶつかり合う膝、咳払い。彼らも、わたしも、存在している、ということを突きつけられる。この人は確かに存在している!
だけど、対話ではその存在を、とりあえずまるごと引き受ける。目の前に人が存在している、ということを受け取ること。愛さなくてもいい。ただ、引き受けることだ。
これは、その身体が隠し持つ欲求、感情や前提を引き受けることでもある。そして、わたし自身もまた、わたし自身に対して、わたしを受け取ることでもある。
わたしは怒ってなんかいない、傷つくべきじゃない。こんなことを思ってはいけない。自分から出てきた感情や前提に対して、そう考えることは対話ではない。大事なのは、眺めることだ。だが、ありのままを受け入れてのみ込め、なんて言いたいわけじゃない。まずは奥底にうごめく、なんだか嫌だったりこわかったり、おもしろかったり愉快だったりするものを、取り出し、目の前に置いて、眺めること。これが対話なのだ。だから、対話の場では、わたしがわたしであることが求められる。あなたがあなたであることをのぞむ。
そこからようやく、わたしたちは議論を始めることができる。
私たちは他者を介して、自分が立っている場所を、譲れない大切なものを、自分が自分でしかないことを知ることができる。非効率で冗長にも思える話し合いは、じっくりと他者と向き合うために必要な時間なのかもしれない。
対話はわたしたちをばらばらにする。だがそれは分断ではない。対話は、あなたの前提と、わたしの理由をきちんと切り分ける。同じ意見を持っているからと、すぐさま融合しようとせず、相手の意見に同調しなくてはと感情や欲求を捨ててしまうのではなく、わたしがわたしであることを取り戻させる。
私が私であるために、あなたがあなたであるために、決して話し合いをやめない。
分断が進む世界の中に話し合いのため飛び地をつくるのがsynの目標である。
永井玲衣(ながい・れい)
立教大学兼任講師。専門は哲学・倫理学。哲学研究と並行して、学校・企業・寺社・美術館・自治体などで哲学対話を幅広く行っている。哲学実践書の執筆、哲学エッセイの連載なども行う。連載に、『晶文社スクラップブック』「水中の哲学者たち」、『HAIR CATALOG.JP』「手のひらサイズの哲学」、雑誌『ニューQ』(セオ商事)などがある。詩と漫才と植物園が好き。