話すと聞くをつなぐスローな行為
「たとえば『なんだかもやもやする』というのはわかるのだけど、それがなぜなのか言葉にできない。自分のことがわからないから、相手に伝えられない。それができるようになる訓練のようなものはありますか?」
この問いかけは小説家の土門蘭さんが、ある大学の「対話」をテーマにした授業で学生さんから受けた質問だそうだ。
話し合いとは、相手の話を聞き、自分の考えを伝える双方向の行いである。相手が発した言葉をきっかけに、新しく気づいたことや感じた思いを自分の言葉へと変換して伝える。これは簡単なようでいて、案外難しい。
例えば、会社の会議や講演会後の質疑応答の時間に意見を求められた時、とっさに自分の考えや感想をまとめるのに苦労した経験はないだろうか。長いあいだ悩んでいるのに、なかなか自分の中で答えを出せない問題はないだろうか。
自分のことは自分ではよくわからない、なんて言葉を聞いたことがあるけれど、私たちは自身の感情や思考をきちんと整理しながら生きているわけではないらしい。
この質問に対して、土門さんは「日記を書くこと」を提案されている。
「わたしも、夜寝る前に毎日日記を書いているんです。誰にも見せない、自分だけの日記を。頭の中にあることを、どんどん外に並べる感じです」
今日は何があった。誰と会った。こう言われて、こう思った。それはなぜなんだろう。もしかしたら、こうだからかもしれない……
「なんでもいいんです。自分にいろんな質問を投げかけてみる。すると少しずつ言葉が出てくるはずなので、たくさん集めてみてください。そうするうちに、自分のことがわかるようになるはずですよ」
誰かの話を聞く機会は日常にあふれている。でも、自分の言葉に耳をすます時間は思っている以上に少ないことに気がづいた。
「書く」ことって、自分の話を「聞く」ことでもあるんだな。
学生さんとのやりとりでそんなことを思った。それならわたしの「書く」「聞く」という仕事は、「自分との対話」「他者との対話」と言い換えられる。
書くという行為は、誰かにメッセージを伝えるだけではなく、自分自身と向き合う技術でもある。
もちろん、話すという行為の中でも知らない自分と出会うことはある。
急な問いかけへの返答や言葉遣いの癖には、自分が大切にしている価値観がにじみでるものだ。
しかし、書くという行為は、なんというか、もっとスローなのだ。
自分の頭に中にあるものにじっと目をこらし、まだ微かにしかみえていないものにゆっくりとかたちを与える。
そうやって目の前に並べ立てることのできた言葉を通して、私たちは等身大の自分の輪郭に出会うことができる。
他者と話す(話す/聞く)ことは未知との偶然の出会いだとすれば、自分と話す(書く)ことは、今ここに潜ってじっくりと考えることだといえるかもしれない。よい話し合いを問うには、「話す」と「聞く」のあいだにある「考える」を見つめなおすことも大切なのだと思う。
自分と対話するには、もっとスローな時間が、考えるためのスローな行為が必要なんだ。
この文章を書いては直しを繰り返しながら、僕はそんなことを考えていた。
土門 蘭(どもん らん)
1985年広島生まれ。小説家。京都在住。小説、短歌、エッセイなどの文芸作品や、インタビュー記事を執筆する。著書に歌画集『100年後あなたもわたしもいない日に』、インタビュー集『経営者の孤独。』、小説『戦争と五人の女』がある。