「言葉」から考える人間と想像力
碓井 智子(うすい ともこ)
龍谷大学政策学部 准教授
専門:認知言語学 空間や時間の言語分析を通して、また第一言語習得の観点から、人間にとって普遍的な法則を見つけることが研究目的である。
趣味:旅行、美味しいもの巡り 最近は京都御苑の散策、広大な敷地の中をかなり隅々まで散策している。お勧めは御苑の北東に位置する「森の文庫」という名の森の図書館。子供向けの図鑑などが多く置かれていて、自然の中で本が読める。大きな切り株やトンネル状の茂みもあり、ジブリの世界にいるような空間。コロナ禍の今だからこそ自然を楽しみたいですね。
著書:講座 言語研究の革新と継承 認知言語学 II 池上, 嘉彦, 山梨, 正明, 編(担当:第11章 空間と時間のメタファー)ひつじ書房 2020年3月
論文:日本語版DVSS(Dysfunctional Voiding Symptom Score)の公式認証~小児質問票における言語学的問題を中心に~ 今村正明, 碓井智子, 上仁数義, 吉村耕治, FARHAT Walid, 兼松明弘, 小川修 日本泌尿器科学会雑誌 105(3) 112 – 121 2014年7月
人類の普遍性を読み解く認知言語学
——本日はよろしくお願いします。今日は碓井さんがご専門とされている認知や言語という切り口から「よい話し合い」につながるヒントをお伺いできればと思っております。早速ですが、認知言語学とはどのような学問なのか、というお話から教えていただいてもよろしいでしょうか。
碓井:簡単に言うと、人間が世界をどのように理解して、それを言語にして表しているのかを分析する学問です。世界を認知する仕方を言語を用いて分析する、というのが一番分かりやすいでしょうか。私たちはみんなが同じ世界を見ているようですが、本当は人それぞれ世界の切り取り方が違っているのです。
認知言語学を紹介する際によく使われるお話を紹介しましょう。例えば、あるコップの中に水が半分入っているとき、現実社会において真実はその一つだけれども、これを解釈して言語化するのは人間ですよね。世界を解釈し、その事実を表現する言語を使う人間がこの世界を表現しようとすると、その人のバックグラウンドや考え方、その日の心理状況などが、言語としてあらわれてくるんですね。コップの中に水が”半分もある”と言った人は、今はのどが渇いてないのかもしれないし、水がそんなに必要ない状態かもしれないという状況が垣間みえます。対して、水が”半分しかない”と言う人は、のどがすごく渇いているのか、もしくは、事実を常に批判的に捉えるようなバックグラウンドを持っている人かもしれない、といったことが、言語表現から見てとれるのです。

つまり現実とは、言語を使う人間による非常に主観的なものだと考えるんです。かつて理論言語学という領域では、言語は数学的で普遍的な公式にもとづいて作られると考えられてきましたが、やはり人間が使うものはそう簡単に説明できないという議論から、1980年代に生まれたのが認知言語学という学問なんです。
——なるほど、非常に分かりやすく説明していただきありがとうございます。私たちのものごとに対する認知は、言語表現にはっきり現れてくるんですね。
碓井:そうです。例えば1つの写真を見たときに、どこに注目するかは人によって違ってきます。しかし、その中にも一定の法則というのがあって、止まっているものよりは動いているもののほうが認知しやすいので、多くの人はそういうものに注目し、言語化することが多いんですね。1つの世界をいろいろな人が見るとき、主観的で完全にバラバラだというのではなく、そこには一定の普遍的な法則が必ず存在しているというふうに考えるのも認知言語学の特徴なんです。
——人によってものごとの捉え方は異なるけれど、人間の認知の癖には一定の法則性が見いだせる、と。

碓井:言語や文化、社会や歴史的背景が全く違っても、同じ身体を持っているのだから、全人類に普遍的な法則というものが存在するはずだと考えるんです。私は、その中でも最も普遍性が高いと思われる「空間や時間の認識の仕方」を研究対象にしています。
法則性の例を挙げると、動いていないものよりも動いているものに注目するということや、ばらばらに散らばっているものと固まっているものがあると、人間は固まっているものをグループ化しようとする傾向があったりします。他にも、人間によるカテゴリー化の法則が、ある非常に有名なアメリカの言語学者の書いた『女性,火,危険なもの』という本の題名に表れています。

Women, Fire, and Dangerous Things/George Lakoff
碓井:これはある民族の言語における分類の話なんですが、火と女は危険なものだ、とカテゴリー化しているんですね。人間が同じ身体を持っていて、二足歩行で、火を使って生活していることや、火を使うことは危険であるけれども生産性が非常に高いこと、また、女性が子どもを宿して産むという行為を「生産的」だとしてカテゴライズをしています。さらに、怒ると怖い女性と、使い方によっては非常に危ない火を「危険」だと捉えているともいえます。歴史や文化、生活している場所が違うにもかかわらず、私たちにも共感できる分け方なんです。
——私たちが無意識におこなうカテゴリーの傾向も、世界的に共通している部分が多いんですね。ここまでのお話を聞いて、人間の主観的な言語表現の中に普遍的な法則性をみつけるのが、認知言語学だということがわかってきました。
碓井:その通りです。私は多言語分析という方法から人類の普遍性を研究しているんです。要は、多くの言語で使われている言語表現や考え方というのは、人類全般に共通している可能性が高いため、日本語や英語のみならず、中国語やルーツが分からないような言語などをリサーチして、そこに同じような表現があれば普遍性が高いのではないか、という観点から分析をしていく方法です。
また最近は、子どもの言語習得にも注目していたりもします。子どもが小さいときに言語を習得していく過程が非常に面白いんですよ。例えば、人間は所有の概念とその表現を驚くほど早く習得します。所有というのは、人間においてとても大きな概念なのです。他にも、イエスよりもノーを先に習得するという傾向もあります。良いことよりも駄目なことを相手に早く伝えないと、命に関わる場合があるため、拒否するという行為が早い段階からみられるのだと思います。言語表現でも、「No」や「嫌」のほうが顕著に見られることから、普遍性が高いのだろうと分析できます。
——子供のなにげない言葉や表現にまで、人類共通の癖があらわれているとは驚きです。
言葉の背景にある人間性を見つめる
——素朴な疑問なのですが、研究の中でどのように新しい気づきや問いが生まれるんでしょう。いろいろと言葉を調べている中で、ふと思いつくようなものなんでしょうか・・?
碓井:今は大量の言語データが集まったコーパスというデータベースがあるので、それを使って研究をすることが多いですが、基本となるのは表現の底にあるルールを見つけだし、地道に探っていくような作業になりますね。
——アンテナと根気がないとできない研究ですね。。基礎研究者の方には頭が上がりません。
碓井:今と比べると、学生時代はアンテナが強く、言語のことばかり考えていましたね。カラオケに行っても、その場を楽しまずに「この言語表現は面白いな」という視点で歌詞を言語データとして眺めていました。笑
——完全に研究者の視点ですね(笑)学生の時点で言語に深い関心をもたれていたということですが、そもそも言葉のもつ法則に興味を持たれたきっかけはなんだったんでしょうか。
碓井:同じ言語表現でも人によってハラスメントとして受け取られてしまうようなことがありますよね。その原因は、その人の持つバックグラウンドであったり、相手との人間関係です。お互いの関係性によって、同じ言語表現でも全く違う認知が生まれてしまう問題を面白いと感じたのが最初のきっかけだったように思います。
——きっかけは話し合いの中で感じた違和感だったんですね。
碓井:言葉というのは、当たり前に話せるし、知らない間に習得してしまえるものです。でも、やはり言語をうまく使える人と、使えない人というのがいます。うまく言葉を使える人は、言葉で人をケアできる反面、最近はSNSでバッシングをして、人を自死に追いやってしまうような言葉の使われ方も散見されます。言葉にはそれだけの力があると理解する必要があるでしょう。

——私たちはもっと自覚的に言葉をつかう必要がありますね。特にSNSなどでの短文のテキストコミニケーションは、微妙なニュアンスが削ぎ落とされてしまいます。
碓井:きょう見たニュースでは、保育士さんがマスクをして子どもに接していると、子どもの表情の豊かさや言語習得などに遅れが生じる可能性があると報じられていました。子どもはしゃべっているときの口元や表情全体で言葉を理解していくので、マスクによる弊害もあるようです。言葉というのは、コミュニケーションの1種のツールでしかありません。人の姿が見えづらくなっている分、言葉以外の部分をみつめるのが重要なんだと思っています。
——なるほど。
碓井:ただ、言葉の背景に共感をするには、いろんな人生経験を通して喜怒哀楽では表しきれないような感情を体感することも大切なんでしょうね。背景をもった言葉には重みがあります。自分が経験していない感情というのは、どれだけ言葉で伝えられても分からないものです。同じ経験をしていないと、共感はできても理解は難しいでしょう。やはり言葉そのものだけではなく、その背景にある人間的な部分を見つめることが、話し合いを考えるということではないでしょうか。
——まさに、人間によって与えられる意味から言語をみつめる認知言語学的な視点が話し合いには必要なのではないか、という問題提起ですね。記号としての言語をいかにうまく操作するかという技術的な話の前に、人間とはなにかを問わなければいけない。
碓井:おっしゃる通りです。確かに理論言語学というのは言葉だけを扱うので、そこに人間の存在は認めません。対して認知言語学は、言葉の背景には常に人間がいるという理論です。1つ1つの真実は、そこに人間が介在するから存在しているのです。言葉というのは常に人間を介さないと分析もできないし、理解もできないという点は、話し合いにも共通しているのではないでしょうか。
——認知言語学の根幹でもある人間そのものに対する眼差しが、現代の私たちには少し欠けているのかもしれませんね。「よい話し合い」について考えている立場として、心に留めておきたいお話です。
碓井:私なりに今回のテーマである「よい話し合いとはなにか」を考えてみたところ、「互いの置かれた環境や事情というのを理解しながら、相互理解の上に成り立つ合意形成」ということではないかと考えました。漢字だらけの固い表現ですみません。(笑)つまり、合意に至るまでのプロセスが人間関係や雰囲気も含めて満足のいく話し合いが理想的だということです。悲しいけれども、みんなが100パーセント満足できる合意を得るというのはほぼ不可能ですよね。例えば異なる信仰をもつ人同士は、何世紀話し合っても、相いれないわけです。意見が異なる者同士が、よい話し合いとしての合意形成に至るには、ある程度の妥協は必要で、問題は妥協点の調整なんだと思うんです。そのためには言葉をうまく使うということも大事だけれども、それ以上に言葉を使う人間の背景に対する想像力が重要になってくるのでしょうね。
——妥協というと後ろ向きな表現にも聞こえますが、話し合いに参加する全員が部分的にでも他者を受け入れようと努める姿勢が大切だということですね。
碓井:そうですね。そういう意味で、やはりSNSでは言葉を使った人の背景が隠れてしまうなと感じます。表情や声のトーンなどが全部そぎ落とされた言葉でのコミニケーションは危険を伴うんですよ。
——書き言葉から読み取れる情報は少ないですからね。
碓井:読み手が10人いたら10パターンの解釈がありますから。
——「話し合い」という言葉1つとっても、意見をぶつけあう討論のようなイメージなのか、答えのない問いを語り合う哲学対話のようなイメージなのかは人それぞれのように思います。
碓井:欧米人は契約社会なのでイエスかノーかをはっきりと示すスタイルが多いのに対して、日本人は話し合いながら徐々に着地点を探っていくスタイルが得意だという文化的な傾向はあるにしても、書き言葉は様々な意味で勝手に受けとられてしまう可能性をもっています。
——書き言葉は文法構造をもとに意味を切り分けていく、いわば理論言語学の論理ですよね。人間性を廃した切断的な表現は、意味を固定化したり要点をシンプルにするのには適しているけれど、繊細な表現には向いていない。一方、話し言葉は人間の微妙な表情や細かいニュアンス、リズムまでを内包した認知言語学の論理で、目に見えない相手の心や背景を想像するには、情報量の多い話し言葉の方が絶対に向いている。多くの人が毎日のようにLINEやTwitterで人と会話をしているわけですが、テキストコミニケーションでは他者への想像力を養うことは難しいわけです。認知言語学という学問は、言語という切り口から人類の普遍性を探求することと同時に、他者への想像力を育む学びとしても捉えられるように思います。
碓井:非常によいご指摘をいただきました。言葉は人間だけが使う高等な能力でもありますから、人間と言葉は切り離せません。ハチやイルカやチンパンジーも言葉を使うと言う人もいるけれども、これだけ豊かな言葉を使えるのは人類だけです。SNSやオンラインでの話し合いが一般的になっても、常に人間あっての言葉だというところは忘れずにいたいですね。
言葉遣いで想像力を養えるか
——お話を伺っていると、認知言語学の視点は「想像力」を養うヒントに溢れた学問だと感じます。認知言語学の基本的な概念を問い直なおすと、他にも新しい気づきが生まれそうです。
碓井:そうですね。例えば、「メタファー」は認知言語学の基本概念です。私たちはメタファーなしには思考することができません。あまりにも当たり前にあふれ過ぎていて、認識すらできない思考の型やパターンのようものだといえるでしょうか。例えば、zoom画面の中で視界に「入った/出た」という表現も、視界を容器に見立てたメタファーだといえます。メタファーはある概念(先領域)を理解するときに、より理解しやすい概念領域(元領域)を用いて理解する認知行為です。メタファーの元領域となるのは物理的世界に存在するものが多いです。例えば、先ほどのzoomの事例は「容器のメタファー」を使用した言語事例です。その背景には、容器の中に何かを入れたり出したりするという日常行為によって裏付けられた経験があります。視覚は個々人の主観的なものなので、視覚を容器のように見立て、その容器(視覚)から出たり入ったりするという言語表現がうまれます。この容器のメタファーは非常に多くの言語で存在することが明らかになっています。他にも、人間の体自体を容器ととらえ、「体に食べ物を取り入れる」。「言葉を発する」などの言語表現の背後にもこの「容器のメタファー」が存在していると考えられています。言語学の授業などでよく挙げるのは、電池の例です。「電池」という言葉は電力を水のようにためているという意味で、電池と呼ばれています。これも目に見えない「電力」を理解しやすい「水」に置き換え、水をためるように電力をためている容器が「電池」なのです。このようにあまりにも言葉の中にメタファーがあふれ過ぎていて、誰も気にもとめない部分にも非常に多くの法則があるのです。メタファーなしには言葉が成り立たないし、私たちは思考することも難しいのです。
——とても面白いですね。1つ聞いてみたいのは、思考そのものがメタファーの上でしか成立しないと考えると、言葉を置き換える技術、言い換えれば、言語表現の幅は想像力に影響するのではないかという仮説です。つまり、多様な言語表現ができるようになることで、物事を様々な角度からみつめる力を体得できるのではないか、といった問いなんですが。
碓井:なるほど、面白いご意見ですね。少し違う話になってしまうかもしれませんが、CMで使われるキャッチコピーなどには、既存の概念を壊すことで新しさを生む例がよくみられます。例えば「Shall we ハーゲンダッツ ?」というコピーなんかがそうですね。普通は「Shall we」といえば後ろに動詞が来るはずなのに、「ハーゲンダッツ」という名詞を持ってきて、文法を壊しています。これはメタファーではないですが、既存のものをうまく壊して、強いインパクトを与えるという手法が、宣伝や広告では使われているといえます。
——言葉を操作することで意味に化学変化を起こすんですね。
碓井:新しい気づきを生み出すためには既存の枠を超えていかなければいけません。このような表現は研究者からはなかなか出てこないのですが、クリエイティブな人たちはうまく狙ってくるのだと思います。
——今のお話を聞いて、他者に対する想像力を養う方法の1つとして、言語の型やメタファーをズラすという方法が有効な気がしました。
碓井:なんとなくわかりますが、メタファーはほぼ全ての表現に浸透しているので、そこが壊れてしまうと新しいものが生まれるというよりは、1番大事なものがなくなってしまうような気もします。
——今の問いかけは、「話し合い」という言葉から連想するイメージが人によって異なるという現象から考えると伝わりやすいかもしれません。「話し合い」という言葉は解像度を荒くするといろんな言い換えが可能ですよね。「討論」というと戦いのイメージが浮かぶし、「協議」というと熟考がイメージできるかもしれません。synのコンセプトでもある「共話」の場合は、温かい印象を与える気がしています。表現ごとの微妙なニュアンスを意識して言葉を聞いたり、言葉をつかったり、あるいは他のよい表現を探してみたりということは、わかりあえない他者への想像力を養う方法な気がしているんです。
碓井:なるほど。非常によく分かりました。例えば、「argument is war(議論は戦争だ)」というメタファーは欧米では一般的ですが、日本には別のメタファーが適するように思えます。そのような当たり前とされる表現を疑ったり、意識的に変えてみるということですよね。
——そうです。完全にはわかりあえないのが他者とのコミニケーションなのだから、意味を伝えるための言葉にはせめて意識的になったほうがいいなということです。話し合いの技術を身につけるより前に、まずは話し合いにのぞむ姿勢が重要だというのはその通りなんですが、技術を磨く過程で話し合いの姿勢を養うこともできるのかもしれませんね。
碓井:認知言語学の、なかなか深くて、すごくよいところにたどり着かれたのではないでしょうか。選択という行為はものすごく大事な認知行為の1つです。たくさんある言語表現の中で、なにを選択するかというものも、やはりその人の判断であり、その人の背景が垣間見えるわけですから。慎重にならないといけないというのは全くそのとおりだと思います。
——人間の背景をみつめようと努める姿勢は、よい話し合いの必須条件ですね。話し合いを支える想像力について引き続き考えていきたいと思います。今日は本当に勉強になりました。ありがとうございました。
取材・編集:角本知史、田中友悟