ISSUE

支配されない/支配しない私でいるために

synは、社会に存在する普遍的な問題について語り合い、問いを深め合うディスカッションメディアです。

第1期は「よい話し合いとはなにか」をISSUEに設定し、1年を通して探求をしていきます。

 

今回お話を伺ったのは、法政大学法学部教授の土山希美枝さん。

専門として研究されている公共政策学の観点から、現代における「話し合い」が抱える課題と、その乗り越え方についてお話を伺いました。

土山 希美枝(つちやま きみえ)

法政大学法学部 教授

1971年北海道芦別市生まれ。2000年法政大学大学院社会科学研究科政治学専攻博士課程修了。博士(政治学)。2001年龍谷大学法学部助教授として着任。職名変更により2007年より准教授。2011年4月、学部新設にともない政策学部に移籍、2015年4月、政策学部教授、2021年から法政大学法学部教授。専門は公共政策論、地方自治、政治学。主な著書に『高度成長期「都市政策」の政治過程』(日本評論社、2007)、ほか、共著『対話と議論で〈つなぎ・ひきだす〉ファシリテート能力ハンドブック』(公人の友社、2011)、『「質問力」からはじめる自治体議会改革』(公人の友社、2012)、近刊に、『「質問力」でつくる政策議会』(公人の友社、2017年8月)、共著『公共政策学』(2018、ミネルヴァ書房)、『質問力で高める議員力・議会力』(中央文化社、2019年2月)などがある。2019年から『議員NAVI』(第一法規ウェブマガジン)にて「ヒロバな議会でいこう」連載中。

地域課題解決のための〈つなぎ・ひきだす〉力

——今日は公共政策学を専門とされている土山さんが、「話し合い」をどのように捉えていらっしゃるかお話を伺いたいと思っています。まず最初に簡単な自己紹介をお願いしてもよろしいでしょうか。

 

土山 私は北海道の芦別市という旧産炭地のまちの出身です。エネルギー転換で石炭が石油に変わる頃からどんどん人口が減っていった町で、最盛期には約7万6千人いた人口が今では1万3000人を切っています。子供の頃は、人が死ぬから町の人口は減っていくのだなと思っていたのですが、どうやらそういうわけではなく、人口が増えている所もあると知りました。私の地元は、好きだからというだけでずっと住み続けていくことが必ずしも簡単ではありません。それはどうしてなのだろうと疑問に思ったのが、この分野に進んだきっかけです。子どもだったので単純に、そういうことを学ぶには政治か経済を学んだらいいらしい、と思ったんですね。

もちろん、その頃は、政策学という学問はありませんでした。今でも政策学は、学際的=いろいろな学問の際(キワ)の重なるところにあって、独自の学問領域として確立しているとはみなされていません。そんなこともあって、最初は政治学を学ぼうということで進んだんですが、学部の2回生で受講した松下圭一先生の授業にすごく心を揺さぶられたのです。それがまさに今でいうところの政策学でした。当時は「政治」というと、保守か革新か、与党か野党かというような話が多かったのですが、松下先生のお話は政治学を基盤に政策を論じていてとても刺激的で、「自治」自分たちが自立・自律して政策主体として位置付けられる理論でした。「こういうことも政治学なんだ!」と思って、ただ、当時そういう理論は学会の主流というわけではなかったんですが、とにかく私はすごく共鳴して、もっと学びたいと思い、大学院に進学したんです。その後いろいろなご縁があって、龍大の法学部政治学科(当時)に着任することとなり、研究者として政策学、地方自治またそこから展開して議会や市民参加、話し合いなどについて関わりを持っています。

 

——ちょうど日本で政策学という学問が広がり始めた頃に、研究者としてのキャリアをスタートされたのですね。分野を横断する学際的な学問ということは、今日の取材テーマである「話し合い」とも関わりが深いテーマだといえそうです。

土山 そうですね。2003年に大学内の研究グループとしてLORC(現在の地域公共人材・政策開発リサーチセンター)が始まったのですが、ひょんなことから、そこの人材育成に関わるプロジェクトチームを代表することになりました。そこで地域政策を担う人材に必要な力について意見交換していくと、コーディネート能力、ディレクター的な能力、リーダーシップ、マネジメント力など、いろいろなものが挙がってきました。でも、その全ての力を合わせもつのはスーパーマンでしかありえないわけです。そこで少し発想を変えて、地域政策を担う全ての人に共通して必要な力は何かを考えることにしました。

 

日本は他の国と比べて、セクター間の分断が大きいという特徴があります。例えばイギリスやアイルランドなどでは、自治体職員もヘッドハンティングされて移籍することがあります。業種に関わらず、日本の雇用市場と違って流動生が高いので、人材の交流が活発なんです。日本の場合は同業の中ですら分断されていて、同じ業態でも企業ごとに全く文化が違ったりしますよね。近年は崩れてきましたが、キャリアの最初から最後までずっと同じ会社にいることが良しとされる日本型雇用のもたらしている影響です。そうすると、その分野の価値観に染まることが当たり前になってしまい、業界や分野を越えた関係性をつくることが難しくなります。当時は社会課題の解決のために、NPOと自治体の「協働」が大切だといわれながらも、お互いが個性を理解しあっていませんでした。

その結果、企業は「あいつらは儲け優先だ」と言われ、NPOは「趣味でやっているだけだ」と言われ、自治体は「税金でズルばかりしている」と言われる、そういう誤解が生じていたんです。

地域にある課題というのは、分断を越えて地域の「みんな」に共有される政策課題です。お互いの違いを超えて一緒に活動したり、競争したり、少なくとも課題を課題だと認識しないと、課題解決には至らないのです。そのために何が必要なのかというと、お互いの違いを超えて課題を共有し、その課題に対して何かを成す力です。そして、そのためにはセクターを越えた対話や議論が重要です。対話と議論を通じて課題を共有し、その結果として理解や共感が互いに引き出されるような〈つなぎ・ひきだす〉力、それこそが地域政策を担う人に大切な力ではないかという答えに行き着いたんです。

 

——社会の課題解決には、分野や領域を超えた連携が大切で、そのためのつながりは話し合いから始まる、と。冒頭でおっしゃっていた日本の地方が抱えている多くの課題も、1つの主体でどうにかするのは難しそうな問題ですもんね。

 

土山 「この人とは分かり合えない」というのも1つの理解のかたちですよね。地域政策における連携や協力という意味では、「なにか共通の課題」をめぐって、対話や議論を通じて〈つながり〉、互いに相手について理解を得る〈ひきだす〉ことが大切です。今すぐ何かが起こらなくても、ひょっとしたら10年後に何かが始まるかもしれないし、私と相手の間には何も起こらなくても、や相手を介して別の新しい人との出会いにつながるかもしれません。また、一度関係性が生まれた相手とは、きっとそれ以降何かを一緒にするのが楽になりますよね。だからこそ、話し合いを通してセクターを越えてつながりやすく、ひきだしやすい社会、〈つなぎ・ひきだす〉関係が豊かにある社会をつくることが理想なんです。

ただ、〈つなぎ・ひきだす〉は、音声による対話や議論からのみ生まれるわけではありません。私は1人の先生の授業に出会って人生が変わったわけですが、文字や映像のもつメッセージに感動することもありますよね。理解や共感を引き出すための媒体は音声に限らないということです。対話や議論をどうすればより実りあるものにできるか、そのための理論や方法を考えるようになったのが、私の「話し合い」との出会いだといえます。

支配されない・支配しない私でいたい —— ちゃんとモメて、ちゃんと治める

土山 もともと、私は生まれてからずっと「変な人」というキャラで歩いて来たんですよね。ずっと「変わっている人」という位置取りなんです。とにかく「少数派」。

 

——なるほど。周りからそう言われることが多かったのですか。

 

土山 周りからも言われるし、自分でもそうだと感じています。自分の興味を持つものについて、周りがあまり興味を持たないのだなと感じる場面が多かったように思います。子どもの頃は、友達関係のなかでも、自分はここにいることが許されるのかどうか探るような意識が常にありました。中二病という言葉が、私にはすごく心に刺さるんです。私は間違いなくそうでしたから。というか、今でも卒業できてないかもしれません。(笑)私はおっちょこちょいでうっかりで、人としては本当にダメなのです。

 

ーー中二病という意味では、私もそうかもしれません。(笑)

 

土山 私の一番古い記憶は、幼稚園に向かう道の角を曲がる時に、大人が私のことを「子ども」だと思って見ている場面です。その時の私は、「大人が思っているほど子どもじゃないのよ」という思いと、「でも本当は子どもなんだから仕方ない」という思いを同時に感じていたんです。自分は何者なのかを、子どもながらにすごく考えていたように思います。そういう自分を覚えてると、「子どもは無邪気」だなんて思えないわけです。子どもなりの思考も打算もある。基本的に少数者は迫害される恐れがありますよね。「変わってる子」つまり少数者だったからかもしれませんが、自分が周りからどう見えているか、一方で自分の心が何を好きなのかをすごく意識していました。だからこそ、世の中がもっと「疎外されない社会」になればいいなと思っています。

 

ーーなるほど。

 

土山 10歳くらいの頃、ある大人に「何だかんだいっても希美枝ちゃんも結婚するよね」と言われたことがあるのですが、私は結婚しないなどと一言も言ったことがないのです。未来はわからないのに、自分の未来について語ることは嫌だったので。そのときは、「この人は私のことを「結婚なんてしない」というタイプの子どもだと思って見てるんだな」と思っていました。嫌な子どもですよね。あと、小学校の頃に作文で「大人になったら何になる?」というのテーマがありましたよね?いつもあれをどうごまかそうかと思っていました。(笑)大人が期待してように振る舞うのが嫌でした。それでも、周りや姉妹と比べて、どうして自分はこうなのだろうという気持ちもあるわけです。基本的に自己肯定感が低いけれども、自分はどういう人間なのかは強く気にしていました。理想の自分像がありつつ、いわゆる大人が期待する子ども像は嫌だという。そういう意味では、「支配されない」ことへの渇望があったんですよね。

 

——そう考えると、支配に抗う少数者に寄り添った理論でもある政策学を志されたのは、幼少期の土山さんが抱えていた問題意識ともつながっていたのかもしれませんね。

 

土山 私が大学のときに受けた松下圭一先生の授業に「都市型社会」という言葉があります。それは、人々が互いに自由でありながら、さまざまなシステムや制度によって支えられている社会を指します。そこでは私たちは自由でいていいのですが、「自由」どうしは衝突するわけです。そうなると、衝突したときにどうするのかを考えるのが重要になります。

衝突したときには、何かルールをつくるわけですが、それは誰かが勝手に決めるわけではなくて、両者の合意で決めるべきことですよね。でもその社会がだんだんと大きくなると、全員の合意を調整するのが難しいので、別のシステムが必要になってきます。それが代表制という仕掛けで、その仕掛けによって政府ができている。つまり、今の社会は誰も「支配されない」社会のはずなんです。でも、実態としてそうなってはいません。授業を見ていても、私たちは「支配される」ことにすごく慣れてしまっているのです。例えば、「空気を読め」という考えです。そういう社会の中で「話し合い」に求められるのは、自分の思いを自由に表現することです。「自分がこう思う」という意見をもった支配されない私同士だからこそ、つなぎ・ひきだすことが可能になるんです

土山 「話し合い」は、対話の手法に限らず、「自分とは何者か」が問われるし引き出されますよね。大学での学びがもっと職業的な役に立つようにすべきだという意見がありますが、私がその話に違和感を持つ理由は、「自分とは何者か」という問いに向き合える学びの期間が大学生活ではないかと思うからなんですね。教員や友人と自由で平等な個人として話し合える環境は、大学の大きな価値だと思うのです。

残念ながら、高等教育までの日本の学校教育は「支配する」ことによって成り立っているといっても過言ではありません。高校生までは、子どもは大人や先生の言うことを聞くものだという支配的な教育を受けるので、自分とは何者かという問いや、自身の政治志向を磨く機会に乏しくなります。そんな状況でいざ選挙を迎えても、突然自分なりの選択などできるわけがないと思うのです。

 

——まだ自分の意思で選択をした経験が少ない状況ですからね。

 

土山 「自由」、つまり選択する権限があるということは、自分と、自分の集合体である自分たちでものごとを決めるということです。自分たちで自分たちのことを治めるというのが自治ですよね。「自治」というのは面白い言葉で、「みずから治める」と皆さんは捉えていらっしゃると思いますが、昔の文書では「おのずから治まる」という意味を表すことがあるのです。おのずから治まるというのは、放っておいても悪さをしないということです。放っておくのは誰かというと、権力を持っている人です。つまり、放っておいてもひとびとが自分にちゃんと従っている、というのが「おのずから治まる」なのです。

日本の教育プロセスは、おのずから治まることを期待される期間が長く、自分たちで治めるという経験がないので、いろんなものが形骸化してしまうのです。例えば、中学校で生徒会に自由な予算を30万つければ、予算を巡ってけんかをしたり、リコールがあったり、党派による多数派争いなどが起きるかもしれません。それは学びになるはずなんですが、そんな経験はあんまりできません。私たちには、空気を読んでなんとなく決まるというよりも、自分たちで治めるという経験が必要なんです。そして、治める前には、モメるという段階がある。「ちゃんとモメて、ちゃんと治める」ことが大切なのです。

 

——話し合いは、ちゃんとモメてちゃんと治める技術の1つなんですね。

 

土山 いわゆる対話というのは、友好的な関係をつくるための話し合いという意味に受け取られがちですが、対話と議論をセットにして考えないといけません。それが、「ちゃんとモメて、ちゃんと治める」ということなのです。そのベースになるのは自分自身はどう考えるのか、つまり、「自分とは何者か」ということを問わないといけません。

 

——そういわれてみると、小さい頃は喧嘩を通して多くのことを学んだ気がします。他人とのあいだで起きる摩擦を通して、誰かの痛みや自分のこだわりに気づくことはありますよね。

 

土山 社会のあらゆる改革は、少数派の問題提起から始まります。政策や制度のネットワークは既に組み上がってしまっているので、「ここがおかしい!」という指摘がないと世の中は変わりません。大勢がすでに認知している課題なら、変化は起きているはずですから。声を挙げるのは少数者などの弱い立場の人になるのです。その問題提起が社会全体で対応すべきものなのかは別の問題ですが、少数者からの問題提起が社会の中で争点として認められやすい社会というのは、〈政策・制度〉のネットワークがブラッシュアップされやすい社会なのです。対して、変えられない社会はそこに至るまでの間に苦しむ人がいっぱい出るのですから社会にとってコストの高い社会といえます。

そう考えると、ちゃんとモメて、ちゃんと治められる社会であったほうがいいですよね。でも今は、モメることがあまり良くないことだという感覚があるようです。学生とやりとりをしていても、デモはあまりよくない、悪いことだと言う声があったりします。

 

——それはどういう理由なんでしょうか。

 

土山 暴力に至ることがあるからです。もちろんエキサイトして暴力につながることは極力避けるべきですが、コントロールしきれないこともありえるわけです。その危険があるから駄目だと言うなら、毎年3000人も死者を出している自動車の利用はなぜ許容されるのでしょう。社会にとって必要な機能であれば、それをより良くコントロールすることに注意を払うべきです。つまり、どうやったらデモが暴力的にならないかということを考える必要はあるけれども、暴力的になる場合があったり、周りの迷惑になるからデモはやめろ、という考えには待ったと言いたいのです。でも、社会はデモ行進や集会などの少数者の問題提起をあまりよしとしないですよね。それは学校教育も同じで、モメたり問題提起したりして集団にとって「面倒なやつ」にならないこと、みんなが同じものを受け入れることが求められてしまいます。管理する側はその方が楽なんですよ。

 

ーー学生さんにとっては、公共の場で怒りを表明することに抵抗感があるのかもしれませんね。

 

土山 違法だから駄目だと言いますが、それならバイト先の雇用状況はどうなんでしょう。聞いていると問題だらけですよね。いつでも一緒に労基に行くよ、と言うんですけど。でも、そうはしない。弱い立場だから声を上げない、モメないことを優先する。それは、やっぱり「支配されている」ってことなんです。

 

——急にバイトを休まなければいけなくなっても、代わりのシフトを必死で探す必要なんて本来はないですからね。(笑)

 

土山 そうです。これは支配されることに慣れているから起こる問題です。デモは嫌だというのは、「おのずから治まっている」、モメずに大人しくしていることが美徳という考えがあるからでしょう。おかしいことに対して自分の意見が言えないのです。

対話と議論による問題提起

土山  ただ、法律などの自由の衝突を避けるためのルールの下では、自分の自由が制約されても支配とはいいません。例えば、友達とワイワイしゃべっている人に、「あなたは私の授業の邪魔をして他の人の学習の邪魔になっているので出ていってください」というのはありでしょうか、なしでしょうか。

 

——ありだと思います。

 

土山  ありですよね。では、「あなたのことが気に入らないから出ていってください」と言うのはどうでしょう?

 

——なし、でしょうか。。

 

土山  そうですよね。どちらも教室を出ていくように言っているのに、何が違うのでしょうか。それは、その教室が学ぶために良い空間であるようにコントロールする権限を私が預かっているからです。私とその学生の間にはシラバスという契約があって、教室はそのシラバスに書いてあることを達成するための場なんです。私は自分が持っているものを提供するし、それを学生が学びやすくなるように、その場をより良い環境に保つ義務と権限を持っています。その「権限」の行使であれば許されるということですよね。ただ、追い出すときには、その学生の学ぶ権利も侵害するわけですから、「私は学びたいです。もう邪魔はしないので教室にいます」と言われた場合は、別の判断に変わるでしょう。気に入らないから出ていきなさいというのは、私が預かっている権限とまったく関係ありませんし、講義が終わればその「権限」は解除されます。権限の範囲を越えて他人に何かをさせようとする力、権限を越えた権力の行使こそが支配なのです。

 

——なるほど。

 

土山 支配の構造が色濃く残っている社会を次の世代に渡していることに、私は責任を感じています。だから、授業ではとにかく「ちゃんとモメなさい」と言います。私は支配されたくないし、学生を支配したくもないからです。

 

ーー自由でいたいのならば、私たちはモメることを手放してはいけない。

 

土山 不祥事があった際に「お騒がせしました」「不快にさせてすみません」という謝罪の仕方がありますが、あれは社会の中で共有されるべき価値観の衝突を回避しているわけです。それでは何が悪かったのかが分かりませんよね。それは謝罪ではありません。

 

ーーすぐに炎上してしまうSNS環境が、世間の謝らなくてはいけないという空気感を増長させているようにも思います。

 

土山 SNS上で起こっているバッシングは、他人の自由を簡単に侵害しますからね。支配される/支配することに自覚がないから、悪いやつには何をしてもいいと勘違いして不当な権力を行使してしまうわけです。

 

ーー昨今のインターネットポピュリズムの加速は、支配される/するということに無自覚である私たち自身にも原因があるんですね。

 

土山 意識されない「支配」が世の中に蔓延しているんです。ましてや新型コロナの影響は、他者と自分との関係を敵対関係にしがちです。他人がウイルスを持っているかもしれないと考えると、全員が敵になってしまうのです。だから、マスクをしない人に対してものすごく厳しいでしょう。それは自分に対する敵対行為なのであって、自分の安全がひどく脅かされる状況だからなんですよ。

 

ーーたしかに世の中の規範にあわせなければいけないという同調圧力を感じる機会は多いかもしれません。多数派の論調に乗っていれば自分で思考せずとも正しいことを言っているような気になれてしまう。

 

土山 規範を受け入れて我慢していたら、支配される代わりに守ってもらえるかもしれない。支配されることの安楽という感覚もありますよね。自由というのは、自分で決められるということですが、全部を決めないといけないのは結構大変です。例えば、私は買い物が大嫌いなんです。デパートへ行って、あんなにたくさんの物の中から1つを選ばないといけないのがシンプルに苦行なので(笑)。おしゃれというか身支度も苦手。もちろん自分が好きな本とか、文具とか、電機製品であれば選ぶ喜びはありますが、何もこだわりがない物を選ぶというのはつらい。自由は時としてつらいのです。

 

——SNSには声の大きい人の発言がコピー&ペーストされて溢れかえっています。多数派の意見に同調することの安楽が、人を考えなくさせてしまっているといえるかもしれませんね。政治的な正しさを主張する運動なんかが特にそうですが、シングルイシューで簡単に連帯してしまうことで丁寧な議論が生まれづらいという弊害が起きている。ある問題が誰のどんな自由を侵害しているのか、自分たちの問題設定が間違っているのではないかという考え抜きに、条件反射的に反応してしまっているように思います。

 

土山 エキサイトして、誰かをさらすことが気持ちよくなるわけですね。

 

——そういった連帯のあり方に対しては、私は少し懐疑的なんです。デモ運動や署名活動などは社会課題に対する働きかけとして重要だと思う一方で、そこに思考停止で参加したり、ある政治的主張に染まってポジショントークをする人もいる。大きなイデオロギーが喪失した今、社会問題に関わることは自分たちの自由の獲得への第一歩ですが、それは本当に自分に向き合った上での叫びなのか、「私とは何か」という問いを経由した上での行動なのかを一度考え直すべきだと思っています。思考せずにマジョリティに溶け込む快楽に浸っていては、支配の構造からずっと抜け出せない。

土山 人とつながったり市民活動を起こすことは、基本的にシングルイシューです。私は他者の意見や批判を引き受ける限りは、シングルイシューでつながること自体はいいと思っています。おっしゃられているように、思考停止してしまうことが問題なのです。先ほど、大きなイデオロギーがなくなったとおっしゃいましたが、「強い人には逆らうな」というのが現在の大きなイデオロギーだと思っています。強い人に逆らわないという空気のもとでは、問題提起が生まれません。問題提起をしない政治的中立というのは、多数派に偏ることにつながってしまうんです。

 

ーー沈黙は多数派への加担になってしまうわけですね。現状を変えるには、問題提起を起点に多数派に対抗する仲間を巻き込んでいかなければいけない。ただ、数をうまく集めようというだけの戦い方には問題があるようにも思います。選挙だけでなくインターネット上での世論形成もそうですが、リツイートやいいねの数が指標になってしまうと、質ではなく、いかに数を集められるかという点にだけ意識が注がれてしまう。署名が何件集まったか、デモや集会に何人集まったかというのも大切ですが、数の論理に飲まれすぎないように問題提起の質を高めていく視点も大切だと感じます。

 

土山 何だか数を獲得するというのが悪いことのように聞こえるのですが。

 

——数を獲得することはもちろん必要です。しかし、ポピュリズム的に一時の人気を獲得する戦略をとるということは、長期的に見ると数の戦いに自分たちから踏み込むということになります。それは結局、次にまた上手に数を集める人たちが勝ってしまうのではないかと思うのです。そういったパフォーマティブな戦い方は、ある意味で人々の思考停止を促してしまうのではないかと思うんですが。

 

土山 それはよく分かります。難しい問題ですよね。

 

——目的を達成するためにコスパのいい方法でとりあえず数を集めよう、という話になってしまうと、思考停止の人たちを巻き込んだほうが早いという結論になってしまいます。例えば社会問題に対する署名活動は簡単に関わることができますが、本当に自分の頭で問題について考えているのかというと、そうとは言えないケースも多いのではないでしょうか。これは責任をもって自身の意見を表明しているとは言えないように思うんですね。つまり、勝ち負けを決める場所と、自分自身と向き合って考える場所には少しズレがあるのではないかと感じるんです。

 

土山 少数派が自分たちの問題意識に共感する人を増やすには、その問題に困っている「当事者」と、それを放っておけない仲間「支援者」を拡大していくしかありません。認知が広まると、当事者と一緒に署名運動をする人や、当事者と一緒にデモしようという人、寄付する人、心の中で応援しているよという人、リツイートで協力する人など、支援者のバリエーションが増えていきます。当事者と支援者が広がらないと、社会の中で課題として認知されもしないのです。他の社会課題も無限にあるなかで、とくに自分(自分が当事者でも支援者でも)にとって重要だと思う課題があるなら、積極的な支援者を獲得しつつ、社会の中で認知を拡げていくことに取り組むことが不可欠ではないでしょうか? その方法については、社会課題に取り組む人みんなが真剣に考えなければいけない問題です。そして、そのときに「話し合い」、つまり対話と議論が必要になるのではないかと思います。

 

——同感です。人間はコミニケーションの様式やプラットフォームの力学によって動かされてしまいます。だからこそ、問題提起を通して認知を広めていくことと、人々の思考を深めていくこと、それぞれに適した技術や場所を考えることが大切な気がしています。

 

土山 技術というのは可能性です。良く使われることもあれば、悪く使われることもあるわけです。今後はネットリテラシーを学校でも教わるようになるかもしれません。フェイクニュースをリツイートしたら知性を疑われるということが常識になると思いますし、そうなるべきです。

 

ーー技術と評価基準をセットでアップデートしていく必要があるわけですね。

 

土山 例えばメールで議論していくと、SNSもそういうところがあると思いますが、最終的には揚げ足取りになることがあります。冷静になる前に、相手の書き込みが活字で目に飛び込んでくる、それが自分への攻撃だと強く感じてしまうのですね。電話と違って声音もなく、かつての手紙と違って2、3日かけて頭を冷やす時間もありませんから。でもICTだからこそできることもあります。それぞれのメディアの特性を理解しながら話し合うことが大切ですね。

我と汝から「私たち」へ —— モメることに敬意を払う

土山 19世紀にマルティン・ブーバーという神学者が書いた『我と汝』という本があります(植田重雄訳『我と汝・対話』岩波文庫)。私なりにざっくりいうと、そこでは、人が外の世界を認識するには、「it(それ)」と、「you(汝)」という2種類があるとされています。例えば咲いている一輪の花をみて、心が動かされることがありますね。これは、世界に存在する対象物と自分との関係が、「我」と「汝」の関係だということです。私は花を摘むことができるし、花を摘まないで、そのまま香りをかぐこともできます。その姿や香りによって、自分の心の中の何かが動かされて、以前とは違う自分になる可能性があります。

しかし、花を単なる「それ」と捉えると、踏みつぶしても心は痛みません。単なるモノですから。その場合の対象物は、自分にとっていかに利益になるかということが価値になってしまいます。

美しい花をみて、自分の世界につなげられる人もいれば、その対象が滅ぼうが特に何も感じない人もいるということです。そういう意味では、よい話し合いは「我」と「汝」の間に起こります。私と相手の両方にとって、何かが変わり得るという前提が話し合いにはあるのだと思います。

 

——なるほど。話し合いは「汝」と相対する可能性が高いコミュニケーション方法なんですね。今のお話は、よい話し合いとはなにかを考えるヒントのように思います。

 

土山 相手と自分は違う人間だということを前提にしつつ、互いに〈つなぎ・ひきだす〉。そんな話し合いを通して、「我」と「汝」の関係、つまり「私」と「あなた」の関係を、「私たち」の関係にできればいいなと思っています。

『我と汝・対話』/マルティン・ブーバー(岩波文庫)

——署名やデモというのは、社会問題に対する間接的な関わり方なので、「汝」に対する想像力が比較的生まれづらい。けれど、話し合いのつなぎ・ひきだしあうプロセスは「それ」が「汝」に変わり得る可能性をもっている。たとえ相手が今は私のことを「それ」としか思っていないとしても、私が相手のことを「汝」と思い続けることでしか「私たち」の話し合いには辿り着けないわけですね。

 

土山 そのとおりです。そのように理解していることで、自分が他人を「それ」として見ていたり、誰かがそう考えているであろう場面に気づくことができます。インターネットで炎上している人を叩くという行為は、まさに相手を「それ」として見ている例です。先ほどご指摘をいただいた数の獲得を目的としたコミニケーションの問題も、対象を「それ」と認識してしまうことに関わる問題提起なわけですよね。

 

——まさしくそうです。「それ」としてみている他人とのあいだには、お互いに変化が生まれるような話し合いは成立しないわけですよね。かつて政治学者のカール・シュミットは、政治に重要なのは友と敵を区別することだと言いましたが、まずは自身の考えを持った上で、私と「汝」の違いを認識しようとすることからしか良好なコミニケーションは生まれない。

 

土山 そうですね。私たちの間で利害が対立する課題こそ、「私たち」の話し合いが必要なのです。

 

——意見の対立を超えて、友と敵の境界線を何度も引き直していく行為が話し合いの可能性だと考えると、改めて「モメる」ことの大切さを感じます。

 

土山 繰り返しになりますが、世の中にはモメることを良しとしない慣習があります。これまで受けた教育を思い返しても、モメることよりも、既にあるルールを守ることが求められましたよね。私たちの社会は、自由はあるはずなのにモメにくい社会になっているのです。これまでやってはいけないことは法律で制限されていたわけですが、今は法律だけではなく社会の構造によって「空気」として決められてしまうところがあり、大いに心配しています。だって大企業の経営者が、デモに行くような人は雇わないと言うのですよ。自由を不当に拘束する発言をするなんて、信じられませんよね。少なくとも今は、支配されているということが意識されにくく、問題提起をすることがよしとされず、権力に従うことが良いという社会なのです。

——モメることが苦手な私たちが、ちゃんとモメるにはどうすればいいでのでしょうか。

 

土山 まずは、自分はモメないとしても、モメ事を起こす人や問題提起する人のメッセージを認めてあげるところから始めなければいけません。自分が共感するか共感しないかというのはさておき、とにかく問題提起をしたということに対して敬意を払いましょう。

でも、問題提起に敬意を払えるようになるためには、少数者のメッセージへの共感が必要です。そうなると、いろいろな社会課題に対する話し合いの場、話し合いの機会がたくさんあることが望ましくなりますよね。ネガティブな「それ」の世界の問題点を受け入れながら、「汝」との関係を意識した〈つなぎ・ひきだす〉対話と問題提起への理解を広げていくことです。問題提起を見たときに「誰かが迷惑しているのだな」ではなくて、「時間を使っても伝えたいことがあるのだな」と、少数者による問題提起の価値に気づくことが第一歩ではないでしょうか。

 

——まずは周囲に存在する問題提起に関心をもつ。それなら明日からでも実践できそうです。

 

土山 もちろんモメる以外にも問題提起の形はたくさんあります。例えばデモ活動もシュプレヒコールを上げるようなものではなくて、LGBTQのレインボーウォークのように、支持を示すこと自体をみんなで楽しもうという形式もありますよね。以前私が住んでいたアイルランドの市民マラソンでは、仮装して走る人が「私が完走できたら●ユーロ市民団体へ寄付してね」と呼びかけるんです。そのような楽しい社会への関わり方がもっとあっていいと思います。

 

——社会参加にはたくさんの方法がありますよね。

 

土山 ただ、そうやって面白くすると、ふざけているのか、真面目にやれ、と言われることがあるでしょう。少し変わったことをやると世間に怒られますよね。変えていけない社会であることが、いろいろな不利益を生んでいます。だからこそ、いざというときにモメられるようにしておくことです。うまく仲良くなることではなくて、うまくモメてうまく治められるようになるのが政策的なコミニケーション能力なのではないかと思います。だから、私にとって対話と議論というのは明確に区別できるものではなくてシームレスなものなんです。

 

ーーなるほど。

 

土山 モメられるようになると、支配されているかもしれない自分に対して敏感になれます。私は割とモメてしまうほうなので、コストとエネルギーの要る人生だなと思いますが。(笑)

 

ーーでも、モメないと世の中は変わりませんからね。

 

土山 みんながみんな、そういう生き方しなくてもいいとは思います。ただ、モメたくないと思っていても、自分の生命や大事なものが脅かされることは誰にでも起こり得ます。そのときにモメられる武器は持っておいたほうがいいかもしれませんね。

 

——話し合いは、ちゃんと揉めてちゃんと治める練習の場なのかもしれないですね。私とあなたは何を考えていて、私たちの違いはどこにあるのか。話し合いの着地点を探る時間こそが大切なんだと感じました。

 

土山  そのとおりですね。話し合いは学びの場だと思います。私は我慢ができず喋ってしまうタイプなので、コーディネーターはできてもファシリテーターはできないのですが、どんな人にも「つなぎ・ひきだす」姿勢が求められます。

 

——〈つなぎ・ひきだす〉という価値観を、その人に合ったかたちで出力していくということでしょうか。

 

土山  そうですね。自分のキャラに合った力を身につけて欲しいと思います。

 

——これからは話し合いの中の「対話と議論」のバランスに自覚的になれるような気がします。今日は非常に有意義なお話をありがとうございました。

●関連書籍

『我と汝・対話』/マルティン・ブーバー(岩波文庫)

 

●取材/編集:西木遼・田中友悟

SHARE

  • Twitterでシェアする

  • Facebookでシェアする

OTHER ISSUE

BACK TO ISSUE INDEX

Discordで随時、
公開編集会議を行っています。

*上質なコミュニティにするためフォームへのご回答をお願いしております。